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思う所あって、断り続けてきた執筆活動をやることにしました。
不定期ですが、連載する予定です。この記事は9月17日に「現代ビジネス」のネットニュースで流れました。8月に依頼されたのが「夏休みの勉強法」。9月に出すのは変だと思ったので「夏休み勉強法の答え合わせ」のつもりで書きました。初めてのことだったので編集者との行き違いが起こってしまい、随分不本意な内容のまま載ってしまいました。
今回はオリジナル原稿を載せ、ネットニュースがどう変わったかを覧ることができるようサイトに飛べるようにして見ました。興味ある方は、違いをみつけてみて下さい。
アンポン 拝
愚かな親と賢い親 ①
夏休みも終わり、中学受験生達は、天王山と言われる塾の夏期講習を終え、一息ついたところだろうか。
僕の塾では毎年、
「『一生のうちで、六年生の夏ほど勉強した夏はなかった』という思い出を作る夏にしろ。」
というのがスローガンである。今現在はとても辛い。なんでこんなことしなくちゃいけないんだろうと思っている受験生がほとんどだろう。しかし、やがて成長していくうちに、苦しい勉強に全身全霊をかけた四十日がなつかしく思い出され、自分の一生の宝物になる日が来るのなら、それこそが親が子に与える最高のプレゼントだということができる。僕は、中学受験は親が子に与える最高のプレゼントだと思っている。そのハイライトが“六年の夏”だということだ。いつでもそうだが、せっかくのプレゼントをよけいな挫折や不幸に変えてしまうのが他ならぬ贈り主の親である。何のための中学受験なのかを浅くしか、もしくは全く考えないまま、「あなたのためよ」と「押しつけがましく強いた結果が、子供の人生のトラウマにしてしまう。結果がうまくいかなかった時、「この経験をあなたにしてほしかった」と言える親だけが、最高のプレゼントを贈ることのできる親である。
子どもが成長して大学生になった時、
「うちの親はヒデーよ。中学受験の時、突然ゲームを取り上げて風呂に沈めて、ニタッと笑いやがったんだ。ほかの友達がゲーム三昧で楽しくやっているっていうのによ。」
これは実話である。皆さんはこの発言をどのように思われているだろうか。僕には親を非難しているというよりも、むしろ自慢して感謝してるようにしか聞こえない。友達にわざわざ話すということは、ほかの親とちがってうちの親は常軌を外れて厳しかったということを自慢しているのだ。“優しい”という言葉が幅をきかせている昨今、むしろ本当の思いやりを親に感じている証ではないだろうか。
何年か前、すでに社会人に成長した教え子二人が訪ねてきて、一杯飲んだ。その時、
「おまえたちにとって、中学受験はどういうものであったか」
と、問うた時、間髪入れず返ってきた答が、
「青春でした。」
だった。塾屋として、最高の言葉をもらった自分は、絶句。言葉にできない幸せを感じた時だった。
閑話休題。夏休みの答え合わせ。必ずしもこのやり方が正しい訳ではないから、参考程度に読んでもらいたい。
一概に、世間は超難関校合格体験者のやり方を手本にしようとし、塾もまたその成功者を模範とすることを推奨したりする。しかし、その成功者は多く見積もっても全体の一割を占めているに過ぎない。残り九割の受験生には真似しようにも真似できない話なのである。
超難関校合格の子どものパターンは次の二つに分類できる。
A、たいして勉強しなくても、ほとんど授業中で解決してしまう。
B、常人では考えられない努力を、もともとあった能力にプラスしていく。
Aタイプの話は、九割の子どもには参考にならない。当然みなさんBタイプの子どもの話を参考にしようとする。
ところが、Bタイプの子どもの真似をしようと思っても、実はほとんどうまくいかない。
それは、AタイプもBタイプも共通点があって、どちらも「もともとあった能力」が下敷きになっているからだ
僕は保護者会でも授業でも「勉強が好きな子は変態である」という話をする。別に性犯罪者だといっているのではない。子どものほとんどは勉強が嫌いで当たり前だという話をしているのだ。
それなのに、世の受験生の保護者は、「うちの子は受験生としての自覚がない」と、その情けなさを叱り、嘆いているのである。
まず、そこから考え直してほしい。普通の子どもは勉強が嫌いであることが前提であるということ。6年生は、11歳~12歳なのであり、そんな子どもが〝自覚〟して当然だと思っていることが、そもそもおかしい。「勉強」とは、「勉め、強いるもの」なのだ。嫌でもやらせる必要があるのは、前提に嫌がって当然のものという認識があるからだ。
AタイプBタイプの子には、もともとそれがない、もしくは少ない。だから、九割の子どもが参考にしようとしても、ほとんどうまくいかないのは当然だ。
野球やサッカーの天才は皆素直に認めるのに、何故か勉強に関しては、「努力しさえすれば何とかなる」という神話が残っている。心の中では、「生まれつきの能力」とか「遺伝」という言葉を理解していつつも。
僕は「天性」や「遺伝」があるから、努力してもムダだと言っているのではもちろんない。誰しもがよく考えればわかることだが、努力の仕方は、それぞれ違うということだ。一人の成功が、マニュアルになる訳がないということだ。。
僕の塾では、毎年6年生に対して個別面談と個別課題を各々に伝える。その達成具合が夏の成果となる。それにはいくつかの基本原則がある。親というのは、何か多くの課題を出されるとホッとする人が多い。自分がやる訳でもないのに課題の山を見て、
「この夏は頑張るぞ!」と意気込む。実際にやってみると、全く思うように進まず、親子で終わらない課題の山を前に絶望感に押しつぶされ、泣き崩れる……。これはよくあるパターンだ。大多数がそうであると言ってもよい。
原則一、夏の課題は、できる範囲のものをできそうな内容に絞ってやっていくこと。
たとえば、うちの塾では月例テストという算数150点満点のテストがある。満点近い子もいれば、40~50点くらいの子もいる。それなのに全ての子に150点満点を要求する復習の課題を出していたら、それは〝平等〟の履き違えか手抜きの課題である。もし、そのテストが平均点75点だったとすれば、40点~50点の子は平均点までもっていくための努力をさせるべきだ。全問やり直しの課題を出せば、当然できない子は解答丸写しというまさに提出のためだけの課題となるのは火を見るより明らかで、ムダな時間の代表となる。
テストでは、どこの塾も正答率表というものを出しているはず。この正答率50%の所まで復習させれば、少なくとも平均点は上回る得点になる。それなら、やる気も出るし、達成感もあるだろう。多すぎ、難しい課題をやらせるのは、九割の子どもにとってなんのメリットももたらさない。ただムダに時間をやり過ごすだけの夏になるのである。
原則二、夏休みの一日の自習時間を五時間までとすること。
一日中勉強するのが受験生の自覚だと信じて疑わない親御さんに問う。自分でそんなに勉強できますか。塾によって夏期講習の塾滞在時間は異なるであろうが、わが塾は13時~19時まで授業、9時~12時半自習室を開放している。これだけで、10時間勉強しているのに、残り一~二時間はさらに家庭学習でやらなければならない。まさに一日中やっているのである。やれる時間とできる内容に絞ることが絶対である。
今年のエピソードを1つ。6年生から入塾した生徒のお母さんから電話で相談があった。
「あのう、国語の読解力を伸ばすにはどうすればよいでしょうか」
「この夏に国語の強化ですか?最も効果が薄い話ですよ。時間のロスになります。何よりも受験の決め手は算数です。算数に時間をかけるべきです。」
「その算数の文章題の意味が分からなくて困っているんです。やっぱり国語力をつけなくてはと思って。」
「算数の問題をやって質問することです。読解力を鍛えてからでは間に合いません。今、そんな時間がありますか?」
「先生から一日五時間までと言われたのですが、算数だけで五時間かけても終わらず、とても他科目まで手が回りません。親子で毎日泣いています」
「それなのに、さらに国語の時間を増やす相談ですか?児童虐待ですね。」
こういうケースは少ない訳でもない。
目標を高く持つのは悪いとは言わないが、できないことをできると思ってしまう大人になってはいけないと自問してほしい。