2025年2月、海浜幕張に新教室を開校いたしました。
043 - 304 - 6713
2月15日(土)新学期スタート!
海浜幕張校ホームページはこちらです。
お問い合わせ、各種お申込みは、津田沼本校HP・お電話(047-470-0059)でも承ります。
2025年2月、海浜幕張に新教室を開校いたしました。
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全学年保護者向け
2025年4月 保護者会
新4年生 4月15日(火)10:00~12:00<国算>
新5年生 4月15日(火)10:00~12:00<国算社理>
新3年生 4月22日(火)10:00~11:00<国算>
新6年生 4月22日(火)10:00~12:00<国算社理>
*入塾をご検討中の方、中学受験をご検討中の方も是非ご参加ください!
HPもしくはお電話にてご予約ください。
<各学年の曜日と時間>
新3年生 (水)16:30~18:05
新4年生 (火)(木)16:40~18:00
新5年生 (月)17:15~20:35、(水)(金)17:15~19:30
新6年生 (火)(木)18:10~21:00、(土)13:00~18:55
2025年2月から2025年8月までの行事予定です。
以下のリンクよりご覧ください。別ウィンドウで開きます。
※このカレンダーはあくまで予定です。社会情勢により、変更が生じる可能性がありますので、最終的な日程は、月々の龍馬通信で確認をお願いします。
※この他に、千葉県主要校の学校説明会や親のためのセミナーなどが入ります。日程は決定次第龍馬通信で発表します。
最終更新:2025/03/17
龍馬はもうすぐ25歳になる。
最初の卒業生は37歳になるということだ。
中学受験を業とする塾が10年続くのは1%にも満たないと言われている。こんな小さな塾が25年も続いたのは奇跡なのかもしれない。だからと言って、飛躍的に大きくなったわけでもない。
いっこうに大きくならないのは、ひとえに僕の一般受けしないやり方に起因する。
それでも、僕にとっての龍馬は、自分の人生とほぼイコールであり、宝であり、ちっぽけながらも誇りでもある。
四半世紀を迎えるにあたって、小さな塾の小さな歴史を皆様にも遺していき、龍馬という塾が何故残ってきたか、何故一般受けしないかを知ってもらうことが、塾紹介の一番の方法だと、新しいページを開設することにしました。
題して、「時の過ぎゆくままに」(笑)。
2023年11月24日
龍馬進学研究会主宰
安本 満
◆NEW◆
3月9日――。「赤い風船」の原稿を書かないと何故この歌をこのメンバーで歌うのかの説明を本番では説明しきれないと思い、当日朝筆をとった。
朝の占いで、ラッキーカラーは緑、ラッキーナンバーは33というのを見た。今日は緑の服を着て、原稿は33行で書こうと決めた。それ故、少し難い文章になった気がする。少しだけわかり易くして、書ききれなかった思いを追記する。
塾通いにしても習い事にしても、それは究極人生をどう生きるかに関わる出来事である。それを抜きにして、「ああしなさい」とか「こうしてはならない」とかは言えないことなのだと思う。仕事をするにしても、政治に参加するにしても芸術に生きるにしても全て人生をどう生きるかに関わることなのだ。
赤い風船は龍馬魂のことであると伝えたが、それは、「かっこいい大人になること」「常識をうのみにするなということ」だと前回のコラムで書いた。
「御上先生」というドラマが終わった。近年マレに見るドラマだと僕は嫉妬さえ感じながらこのドラマを観ていた。最終回を観終えた時、「赤い風船」の記事を先に書いておいてよかったと思った。というのは、ほとんど同じ内容を描いていたからだ。詳しくはドラマを見て欲しいが、全編通して印象深いセリフをうろ覚えながら列挙してみる。
①「それができなきゃ自分が自分でなくなるような気がする」(これこそ赤い風船!)
生きていく上で、絶対手放してはならない自分にとっての命と言い換えてもいい真実。自分にとっての価値観。他人が決めた“常識”ではないものを示す。
②「君達がめざしているのは、上級国民になるということだ」
今の日本の根拠のない“常識”。人間の幸福は、お金持ちになることだといつの間にか思いこんでしまった社会の価値観を示す。
横道にそれるが、ヒッチコックの映画に次のような名言がある。
「人はお金によって幸福になることはできないが、それでもお金によって多くの不幸を防ぐことはできる。」
お金があればあるほど幸せだと思う人はいないだろう。しかし、遣い切れないお金を持つ人は、さらにお金を持とうとする。なぜだろう。それは権力につながるからだ。上級国民とは、不幸を防ぐためにお金を遣う人のことではなく、権力者に近い位置にいようとする人達の病名である。
世界が平等であることは正しいとは誰しも思っているのに、やっていることは真逆の競争だ。これが今の日本の状況。
③「おまえ達(文科省)が人間の価値を学歴で決めてしまうような世の中を作りあげやがったから、俺達が泥水を飲んでもやらなければならなかったんだ」
ここでいう学歴とは、もちろん中卒、高卒、大卒のことではない。いかに偏差値の高い大学に合格するかによって人間の価値が決定されるということである。
これは、中学受験の世界にも当然降りてきていて、偏差値の高い大学への合格実績の高い中学が人気を集める。そうでない中学もそれに倣い、大学合格実績を競い、上げようとする。
僕がこの業界に身を置いた40年以上前の価値観とほとんど変わらない。塾産業もこの序列を旗印にした営業会社としての優位性を競い合う。
先日、東大入試問題のほとんどをAIがクリアしたことが報道された。東大に入れなくても、AIを使いこなせば同等以上の知識が持てる時代はすぐ来るにちがいない。
塾産業が従来の価値観である限り、サピックスの一人勝ちはしばらくは続く。上級国民を目指すためのアプローチとして。
龍馬はその競争とは一味違う存在であらねばならない。嘲笑われるだろうが、サピックスの対極でありたいと思う。
明確に差別するなら、「上級国民へのアプローチとしての中学受験」と「人生の充実という意味での中学受験という今」と表現してみたい。
東大を出たエリートの人生が果たして圧倒的に幸せなのか、それにこだわるがあまり、何か大切なものを忘れてしまったと後悔しているのではないか。
人生をふり返った時、「ああ、生まれてきてよかった。産んでくれてありがとう。お父さん、お母さん」と思えることの方がどれだけ価値があることだろう。
職業である以上、経営を度外視して塾をやることはできないから、ある程度妥協していくことは否定しない。
しかし、人生を生きていく上で、中学受験が持つ価値観は、“合格”だけではないということを絶対に忘れてはいけない。
敗れざる十二歳の青春――。中学受験というこの厳しくも楽しい時代を小学生で経験することこそ、親が子どもに贈る最大のプレゼントである。
龍馬の卒業式は、“合格祝賀会”ではなく卒業祝賀会と言う。それは、結果ではなく、その在籍時の各々の日々、ドラマを十二歳の青春として胸に抱かせておくための会である。一人一人のドラマに対する僕なりの惜別の祝辞を贈る日なのである。極論すれば、僕のすべての一年は常にこの日のためにあったと言える。
「御上先生」のラストで、一人の生徒が言う。
「先生、俺、絶対手放さないから――」
卒業式。生徒代表あいさつ斉藤菫、保護者代表須藤さん、本当に心からうれしく感謝いたします。
自分は幸せ者だと思います。
2025年4月12日
龍馬26周年記念日に
◇◇◇追記◇◇◇
本コラムの感想文を募集いたします。
メールでryouma1115@hotmail.co.jpまでお寄せください。
********************
< 島根県松江市 マセタ67才さん より >
アンポン先生の高校時代のクラスメートです。赤い風船、二つとも拝読。こんなに尊敬すべき人格者が同級生だなんて嬉しい気持ちと同時に、成長の無い我が身を恥じております。
思い出せば、あの頃から常識を疑う前向きな性格が災いして不良学生に観られがちなタイプだったけど、なぜか先生方も一目置く存在だったね!
こないだ担任のI先生にお会いしたら、今だにアンポンのことが話題に出ました。
赤い風船、私が知ってる、あの曲にまつわるもうひとつの彼の甘酸っぱいエピソード!私は、その話かと思ったよ!
島根県松江市
マセタ67才より
(これは50才過ぎに彼に付けられた名前。それ以来毎年更新。マセタ100才って呼ばれるのを待ってますね)
「赤い風船」という40分足らずのフランス映画がある。この映画には、セリフが3つぐらいしかない。
僕の龍馬最期の卒業式に選んだ曲は、この映画と同名の「赤い風船」。昭和40年代に大ヒットした安井かずみ作詞、浅田美代子が歌った曲である。映画との関連は僕は知らない。あくまで自分が関連させてみただけの解釈である。
映画の主人公は少年である。ある日、登校のために駅に向かう途中、木にひっかかっている赤い風船をみつける。それを持って電車に乗ろうとすると、駅員に危険だから、と止められる。迷った挙句、少年は学校まで走っていく。ところが、今度は学校の入口で先生に注意される。そんなものを持って学校には入れないと言う訳である。泣く泣く少年は風船を手放すが、下校時にその風船は、ペットの犬のように少年の所に降りてき来て、少年に寄り添ってくるのである。やがて、パリ中の風船が少年の所に集まってきて、皆がそれを欲しがり、奪い合ううちに風船は割れてしまう。
あの子は どこの子
こんな夕暮れ
しっかり握りしめた
赤い風船よ
「あの子」とは龍馬生、「こんな夕暮れ」=確かに龍馬は夕方に始まる(笑)。
「赤い風船」とは何か。
それを持っていては電車に乗ることが許されず学校では先生に叱られるもの――。
電車に乗ると言うことは社会のシステムの常識を守ることであり、学校とは、乱暴に言えば社会に出るための常識を洗脳する場所である。だから、入口で赤い風船は手放さなくてはならないのである。
心の中の赤い風船を手放すことで、人は大人になるのかもしれない。でも、赤い風船は大人になっても手放してはいけないものなのだと僕は思う。
「赤い風船」。それは卒業式で歌う時、「龍馬魂」を意味する。しっかり握りしめた龍馬魂――。
なぜだかこの手を
するりと抜けた
小さな夢がしぼむ
どこか遠い空
国語的に言えば、この四行は、初めの四行とは別人の視点になっている。「あの子」なら「あの手」であるが、「この手」になっているのだから、風船を持っていた子の視点に変わっているのである。
「この手」の持ち主は、かつて風船を握りしめていた「あの子」が、いよいよ社会に出ていく直前に気づいた出来事なのではないかと僕は解釈する。もうすぐ学校を卒業しようとする時、「なぜだか」自分はいつの間にか大切なことを忘れてしまったのではないかと気づき、心細さや生きることの虚しさを感じている夕暮れではないかと思えるのだ。その意味では初めの四行と次の四行の視点が変わっていると言ったが、人物が変わったのではなく、同一人物の回想が初めの四行と解釈することもできるのである。いや、むしろそう解釈すべきかもしれない。
こんな時 誰かがホラ
もうじきあの、あの人が
来てくれる きっとまた
小さな夢持って
「あの人」とは、龍馬魂を思い出すこと。そうであって欲しいと願う。
この子は どこの子
もう日が暮れる
隣の屋根に飛んだ
赤い風船よ
「この子」は現在の自分。だから、かつての自分である「あの子」ではなく、今現在の自分のこと。いつの間にか手放した赤い風船は、隣の屋根に移ってしまった。もう日が暮れるから今日とりに行くことはできない。もう子どもではないのだから。「隣の屋根」は龍馬の後輩たちのことかもしれない。近くても自分の家ではない。
なぜだか この手に
涙が光る
しょんぼり よその家に
灯りともる頃
「よその家」=赤い風船が飛んでいった隣の家、龍馬魂を受け継いだ人達の家には「灯り」=希望と温もりが(笑)。都合の良い解釈かなぁ――。いつの間にか赤い風船を失くしてしまった自分は、理由がわからないのに涙があふれ落ちてしまう。やはり自分が生きていくための大切なものを見失ったのではないか。生きることの指針と言い換えてもいい大切な、いつの間にか捨ててしまった大切なものがわからなくなったのである。だが、その家に飛んで行った赤い風船は、隣の屋根にあるのである。
こんな時 誰かがホラ
もうじきあの あの人が
来てくれる
優しい歌 うたってくれる
あの人が
優しい歌 うたってくれる
「龍馬魂」とは何だっただろう。
かっこいい大人になる――。かっこいい大人とは、自分のやるべきことは責任を持ってやること。正しいことは正しいと、間違っていることは間違っていると責任を持って言えること。
電車や学校は、大人になって社会に出ていくためのルールや常識を身につける場である。
龍馬魂がルール違反や全ての常識をぶちこわせと言っているのではないことはわかってくれるはずだ。
大切なことは、ルールや常識を「ルールや常識だから。」という理由で、盲目的に受け入れないということだ。ルールや常識の全てに対して、何故このルールになったのか、何故それが常識なのかを考える人間になるということだ。それが正しいこと、間違っていることを言える人間の姿勢だと思うからだ。
僕には何故そうなのかわからない常識がいっぱいある。覚えてくれているかわからないが、「罪と罰」(ドストエフスキー)で何故殺人は最大の罪なのか、「河童」(芥川龍之介)で、何故人間は自分の意志で生まれた訳でもないのに、「ああしてはならない、こうせねばならない」と大人に強制されるのかを問うたことがある。君は答えられるか?
六十七歳。今僕は、はっきり赤い風船を持ち続けることができた人間だと自分を誇れる。この幸せは、同世代にそうはいない。龍馬生である子どもも含めて周りの人に恵まれたからこそである。
‟常識を疑え”。
もちろん、六十七年の人生の中で、何度か赤い風船を手放したり、見失ったりしたことがあったに違いない。だが、隣の屋根までしか離れなかった赤い風船は、今でははっきり自分の手元にある。赤い風船は、自分の生きた証であり、それ故、死への恐怖は全くない。願わくば、苦痛と志半ばの死だけは御免こうむりたいが。
最後の僕の詩の授業です。原作から得た僕の創作・解釈で伝えてみました。
◇◇◇追記◇◇◇
卒業祝賀会及び赤い風船の感想文を募集いたします。
メールでryouma1115@hotmail.co.jpまでお寄せください。(湯浅)
********************
まさに、安本先生の生き方だな、とおもいました。
自分は龍馬生だったころは実感できていませんでしたが、色々な経験を経て、今は僕の価値観、目指すところは龍馬の価値観と近いな、と思うことがたくさんあります。
まだまだ、自分は未熟で忘れてしまうことも多いですが、龍馬の皆様と関わるたびに思い出させていただいており、感謝しております。大変なことも多くなると思いますが、引き続き皆さんで続けていただけますと大変うれしいです。
当日の夜に拝見させていただきました。
赤い風船という映画も詩も知りませんでしたが、当日歌も聞きましたが、すごくいい曲でした。
また、先生がコラムでおっしゃっている、赤い風船を龍馬魂として解釈された部分はなんとなくわかる気がします。
長くなりましたが、今後ともよろしくお願いします。
九月からの体制交替に備え、棚の整理をしていたら、懐かしい記事が出てきた。「センター通信社」が発行していた受験雑誌の記事である。今から20年以上前のものであり、まだ僕も40代半ば。龍馬4年めのものである。逆に目新しいので載せておきます。2003年4月のイベントです。
記事は以下のリンクよりご覧ください。別ウィンドウで開きます。
愚かな親と賢い親 ②
誰だってよく考えればわかることである。ところが、中学受験生をかかえている親御さんは、どうも旧態依然とした教育論にしばられたまま、子どもを虐待してしまっているように思える。そういう思い込みの根拠は何なのかしっかり答えられる親御さんがどれくらいいいらっしゃるのか、疑問を感じざるを得ない。
「自分の時代はそうやって教わったから」
「学校の先生がそうおっしゃっているから。(もしかしたら、塾の先生も)」
という考え以外の根拠がしっかりあるのなら特別反対しようとは思わない。しかし、「学校教育の在り方におかしな所はないか」、ひいては「大人の常識におかしな所はないか」と考えるのが、本当の大人の役割なのではないかと思う。
僕が聞いた話では、小学校の筆算は定規を使って線を引くという。漢字は、あいもかわらずトメ、ハネ、ハライ、そして筆順である。
筆算に関しては、僕の時代(半世紀以上前)にはない指導法である。何か変だなと思いながらも、学校がすることだから間違いではなかろう、あるいは仕方がない、と考えてしまっていないだろうか。
考えるに、筆算とは、暗算で計算しにくい数字を、速く正確に解く方法であり、学習する価値があるものとして認識していた。難しいものではない証拠に、小学校低学年から習えるものだ。定規を使って書くというのは、どうにもその認識と矛盾する。親御さんの中にも疑問を持たれた方は少なくない。だからといって抗議されたという話も聞かない。モンスターペアレンツの時代といっても、やはり大多数の親御さんは公教育に敬意を払って、黙って従っていらっしゃるのだろう。あるいは諦めていらっしゃるのか……。
僕の塾では、「親セミナー」を開講していて、その中で「国語のできる子とできない子」というテーマの回がある。
「できる・できない」の前に、「国語が好きか嫌いか」というのがある。セミナーはそこから始めるのだが、実質的に言いたいのはここなのである。題して、子どもが国語嫌いになる三つの方法(笑)
その一、漢字のトメ・ハネを注意する。
僕の塾では、4年生のうちに6年生までの必修漢字を全て終わらせるが、初めはそんなペースでやれる訳がないと思っていた親子が、三ヶ月もすると普通のことのように思うようになっている。それくらい子どもの脳は覚えることができるのである。ところが、それにストップをかけるのが実は親なのである。「トメ・ハネ・ハライがダメ」とか「書き順がおかしい」とか正論のように注意しだす。すると、子どもはもう「たった一字でもこんなに面倒くさいのなら、もう漢字の練習はやりたくない」となってしまう。
トメ・ハネ・ハライも筆順も、実は習字からきている。美しい字を書く方法なのである。その昔、僕等の時代(現66歳)は、もちろんそうであった。ワープロもパソコンも全く普及していない時代である。美しい字が書けるというのは、それ自体社会的に長所であり、重宝される特技として認められていた。しかし、今の子どもたちが社会に出る頃、美しい字が書けるかどうかを問題にする人がどれほどいるだろうか。トメ・ハネ・ハライに気を配り、筆順をいちいち覚えることに膨大な時間をかけることが、中学受験生にどれほど必要なことだろうか。子ども達が大人になる頃字は書くものから打つものに変わっているはずだ。にもかかわらず膨大なむなしい時間を強いてしまっていないだろうか。「社会に出てから必要なくても、受験には必要でしょう?」そんな馬鹿馬鹿しい勉強をさせることが親の役目だと思っているとしたら、馬鹿親と言われてもしかたがない。
トメ・ハネ・ハライは、くり返し学習しているうちに何とか形になってくるものだ。その前提である「覚え、読む」という作業に親が「完璧」を求めて、やる気をそいでしまってどうするのか。聞いてみたい。あなたは、トメ・ハネと筆順の注意を受け、バツ書き十回を命ぜられた少年・少女の時代を懐かしく思いだすことがありますか?と。もし、自分が面倒で嫌だったと思うのであれば、漢字を学習しないわけにはいかないから、せめて自分たちの時よりも合理的な学習法を与えてやるのが本当なのではないか。自分たちが嫌だったことと同じことをやらせるためには、それが心底役に立ったという確信がなければならない。「美しい字」を書かねばならない時代が終わろうとしている今、旧態依然の学習法を強要しているとしたら、大人(日本)は教育劣等者(国)、時代錯誤と呼ばれても当然であろう。
ちなみに、先日九歳違いの二人の開成合格者が来た。二人共、漢字のトメ・ハネは意識してなかったと言い、親から強制されたこともなかったという。文字の役割は、相手に自分の意図を伝えること、相手の意図を理解すること、である。二人は、無意識的に国語にとって何が一番必要なのか分かっていたのかもしれない。お世辞にも「美しい字」を書いていなかったし、僕もとがめたりしなかった。
その二、辞書を引きなさい。
「わからない言葉があったら、辞書を引いて自分で調べなさい」
これは常套句であり、「正しい国語の勉強法である。」と信じて疑わない大人がなんと多いことか。
僕が塾業界に足を踏み入れて四十年の月日が経つ。その間、大きく変化したことがある。中学入試の国語の問題が難化していることだ。文章難度は、大学入試かと見間違うほど高度になり、しかも長文化している。やっかいなことに、今の時代は子どもの国語力は三十年前と比べて、著しく劣化しているというのにだ。
子どもに辞書を引かせるように指導するようになったのは何故か、という根本にたち返ってみよう。
昔、日本が貧しかった頃、両親も年上の兄姉も小学校を卒業すると、ほとんどが働きに出ていた。年長者が子どもの勉強を教える時間などなかった。そういう時に、自学自習にとても便利なものとして辞書は重宝された。自分所有の辞書などない時代でも学習意欲のある子どもは学校の図書館に通ったのであろう。
僕の時代は家所有の辞書はあった時代になっていたが、その頃の僕は、学校の宿題等で「辞書を引いて調べる」というのは苦痛でしかたなかった。国語という科目は嫌いではなかったのだが、どうにも面倒くさいことは避けて通りたかった。おそらく、現代の子ども達は、より一層面倒に耐える力はないだろう。
僕は、国語力の六割は語彙力で決まるという確信を持っている。今の子ども達の語彙力は二十年前の半分と言ってよいだろう。そこへ持ってきて文章レベルの高い問題を練習させられる。どんどん国語が嫌いになっていってもしかたがないように思う。
小学校の教科書とはレベル違いの文章だから、知らない言葉はページにいっぱい出てくる。いちいち辞書を引いていたら、いやになるのは当然だ。第一、小学生対象の辞書には載っていない言葉ばかりだ。かといって大人用辞書で調べれば、今度は書いてあることを理解できないことが多い。
言葉を獲得する一番は、大人との会話である。家庭の事情にもよるが、その昔との大きな違いは、大人がそこまで忙しくないことだ。
赤ちゃんは、母親から「パパ」「ママ」「ワンワン」と教えられて言葉を覚えていく。わからない言葉を教えてやったらいいのだ、いちいち辞書を引くまでもない。忙しい受験生をより忙しくするのはナンセンス。もともとそうやって言葉は獲得するものなのだ。高校生になって、言葉の意味を知りたくなったら、自分から辞書を引く(今の時代はスマホで調べる)だろう。悠長な徒労を課しているに過ぎない。
子ども達に何もかもムダを省かせるのが正解だとは思わない。むしろ、今の時代、ムダだと思われていることほど大人になって必要なことはたくさんある。しかし、過大な要求をされている中学受験生にもう必要としない苦役をさせるのが正しいと盲目的に信じている親は、もう一度よく考えてみることである。
そして、もう一度自分に問いかけてみよう。
「私は何故子供に中学受験をさせようとしているのか?」
子どもが国語を嫌いになる、「その三」は、次の機会があれば。
思う所あって、断り続けてきた執筆活動をやることにしました。
不定期ですが、連載する予定です。この記事は9月17日に「現代ビジネス」のネットニュースで流れました。8月に依頼されたのが「夏休みの勉強法」。9月に出すのは変だと思ったので「夏休み勉強法の答え合わせ」のつもりで書きました。初めてのことだったので編集者との行き違いが起こってしまい、随分不本意な内容のまま載ってしまいました。
今回はオリジナル原稿を載せ、ネットニュースがどう変わったかを覧ることができるようサイトに飛べるようにして見ました。興味ある方は、違いをみつけてみて下さい。
アンポン 拝
愚かな親と賢い親 ①
夏休みも終わり、中学受験生達は、天王山と言われる塾の夏期講習を終え、一息ついたところだろうか。
僕の塾では毎年、
「『一生のうちで、六年生の夏ほど勉強した夏はなかった』という思い出を作る夏にしろ。」
というのがスローガンである。今現在はとても辛い。なんでこんなことしなくちゃいけないんだろうと思っている受験生がほとんどだろう。しかし、やがて成長していくうちに、苦しい勉強に全身全霊をかけた四十日がなつかしく思い出され、自分の一生の宝物になる日が来るのなら、それこそが親が子に与える最高のプレゼントだということができる。僕は、中学受験は親が子に与える最高のプレゼントだと思っている。そのハイライトが“六年の夏”だということだ。いつでもそうだが、せっかくのプレゼントをよけいな挫折や不幸に変えてしまうのが他ならぬ贈り主の親である。何のための中学受験なのかを浅くしか、もしくは全く考えないまま、「あなたのためよ」と「押しつけがましく強いた結果が、子供の人生のトラウマにしてしまう。結果がうまくいかなかった時、「この経験をあなたにしてほしかった」と言える親だけが、最高のプレゼントを贈ることのできる親である。
子どもが成長して大学生になった時、
「うちの親はヒデーよ。中学受験の時、突然ゲームを取り上げて風呂に沈めて、ニタッと笑いやがったんだ。ほかの友達がゲーム三昧で楽しくやっているっていうのによ。」
これは実話である。皆さんはこの発言をどのように思われているだろうか。僕には親を非難しているというよりも、むしろ自慢して感謝してるようにしか聞こえない。友達にわざわざ話すということは、ほかの親とちがってうちの親は常軌を外れて厳しかったということを自慢しているのだ。“優しい”という言葉が幅をきかせている昨今、むしろ本当の思いやりを親に感じている証ではないだろうか。
何年か前、すでに社会人に成長した教え子二人が訪ねてきて、一杯飲んだ。その時、
「おまえたちにとって、中学受験はどういうものであったか」
と、問うた時、間髪入れず返ってきた答が、
「青春でした。」
だった。塾屋として、最高の言葉をもらった自分は、絶句。言葉にできない幸せを感じた時だった。
閑話休題。夏休みの答え合わせ。必ずしもこのやり方が正しい訳ではないから、参考程度に読んでもらいたい。
一概に、世間は超難関校合格体験者のやり方を手本にしようとし、塾もまたその成功者を模範とすることを推奨したりする。しかし、その成功者は多く見積もっても全体の一割を占めているに過ぎない。残り九割の受験生には真似しようにも真似できない話なのである。
超難関校合格の子どものパターンは次の二つに分類できる。
A、たいして勉強しなくても、ほとんど授業中で解決してしまう。
B、常人では考えられない努力を、もともとあった能力にプラスしていく。
Aタイプの話は、九割の子どもには参考にならない。当然みなさんBタイプの子どもの話を参考にしようとする。
ところが、Bタイプの子どもの真似をしようと思っても、実はほとんどうまくいかない。
それは、AタイプもBタイプも共通点があって、どちらも「もともとあった能力」が下敷きになっているからだ
僕は保護者会でも授業でも「勉強が好きな子は変態である」という話をする。別に性犯罪者だといっているのではない。子どものほとんどは勉強が嫌いで当たり前だという話をしているのだ。
それなのに、世の受験生の保護者は、「うちの子は受験生としての自覚がない」と、その情けなさを叱り、嘆いているのである。
まず、そこから考え直してほしい。普通の子どもは勉強が嫌いであることが前提であるということ。6年生は、11歳~12歳なのであり、そんな子どもが〝自覚〟して当然だと思っていることが、そもそもおかしい。「勉強」とは、「勉め、強いるもの」なのだ。嫌でもやらせる必要があるのは、前提に嫌がって当然のものという認識があるからだ。
AタイプBタイプの子には、もともとそれがない、もしくは少ない。だから、九割の子どもが参考にしようとしても、ほとんどうまくいかないのは当然だ。
野球やサッカーの天才は皆素直に認めるのに、何故か勉強に関しては、「努力しさえすれば何とかなる」という神話が残っている。心の中では、「生まれつきの能力」とか「遺伝」という言葉を理解していつつも。
僕は「天性」や「遺伝」があるから、努力してもムダだと言っているのではもちろんない。誰しもがよく考えればわかることだが、努力の仕方は、それぞれ違うということだ。一人の成功が、マニュアルになる訳がないということだ。。
僕の塾では、毎年6年生に対して個別面談と個別課題を各々に伝える。その達成具合が夏の成果となる。それにはいくつかの基本原則がある。親というのは、何か多くの課題を出されるとホッとする人が多い。自分がやる訳でもないのに課題の山を見て、
「この夏は頑張るぞ!」と意気込む。実際にやってみると、全く思うように進まず、親子で終わらない課題の山を前に絶望感に押しつぶされ、泣き崩れる……。これはよくあるパターンだ。大多数がそうであると言ってもよい。
原則一、夏の課題は、できる範囲のものをできそうな内容に絞ってやっていくこと。
たとえば、うちの塾では月例テストという算数150点満点のテストがある。満点近い子もいれば、40~50点くらいの子もいる。それなのに全ての子に150点満点を要求する復習の課題を出していたら、それは〝平等〟の履き違えか手抜きの課題である。もし、そのテストが平均点75点だったとすれば、40点~50点の子は平均点までもっていくための努力をさせるべきだ。全問やり直しの課題を出せば、当然できない子は解答丸写しというまさに提出のためだけの課題となるのは火を見るより明らかで、ムダな時間の代表となる。
テストでは、どこの塾も正答率表というものを出しているはず。この正答率50%の所まで復習させれば、少なくとも平均点は上回る得点になる。それなら、やる気も出るし、達成感もあるだろう。多すぎ、難しい課題をやらせるのは、九割の子どもにとってなんのメリットももたらさない。ただムダに時間をやり過ごすだけの夏になるのである。
原則二、夏休みの一日の自習時間を五時間までとすること。
一日中勉強するのが受験生の自覚だと信じて疑わない親御さんに問う。自分でそんなに勉強できますか。塾によって夏期講習の塾滞在時間は異なるであろうが、わが塾は13時~19時まで授業、9時~12時半自習室を開放している。これだけで、10時間勉強しているのに、残り一~二時間はさらに家庭学習でやらなければならない。まさに一日中やっているのである。やれる時間とできる内容に絞ることが絶対である。
今年のエピソードを1つ。6年生から入塾した生徒のお母さんから電話で相談があった。
「あのう、国語の読解力を伸ばすにはどうすればよいでしょうか」
「この夏に国語の強化ですか?最も効果が薄い話ですよ。時間のロスになります。何よりも受験の決め手は算数です。算数に時間をかけるべきです。」
「その算数の文章題の意味が分からなくて困っているんです。やっぱり国語力をつけなくてはと思って。」
「算数の問題をやって質問することです。読解力を鍛えてからでは間に合いません。今、そんな時間がありますか?」
「先生から一日五時間までと言われたのですが、算数だけで五時間かけても終わらず、とても他科目まで手が回りません。親子で毎日泣いています」
「それなのに、さらに国語の時間を増やす相談ですか?児童虐待ですね。」
こういうケースは少ない訳でもない。
目標を高く持つのは悪いとは言わないが、できないことをできると思ってしまう大人になってはいけないと自問してほしい。
アクセスレポート(アクセス教育情報センター発行)
2021年3月31日号より
塾訪問 龍馬進学研究会(2月12日)
今回は、大手塾在籍中はカリスマ国語教師と言われ、龍馬進学研究会を立ち上げてからは子ども、保護者から授業だけでなく、その生き様にも圧倒的な信頼を得ている龍馬進学研究会主宰の安本さんにお話を伺いました。
龍馬進学研究会 安本さん
浅見:塾に携わって何年になりますか。
安本:中学受験に携わって36年。その前の塾経験を含めれば38年になります。龍馬進学研究会を立ち上げてからは22年になります。
浅見:なぜ、塾で教えるように。
安本:映画の助監督をしながら、脚本家になりたいという希望がありました。学生の頃、脚本のコンクールに入選したこともあり、その気になっていたのですが、当時は映画業界が不況で最低の時で、仕事がないこともあり収入面で生活が厳しく、アルバイトとして塾で教えるようになったのがキッカケです。塾のアルバイトによる収入がよかったこともあり、徐々に塾に重心が移り、大手塾Aの講師を経て、龍馬進学研究会を立ち上げ現在に至っています。
浅見:脚本家を志望していたというのを聞いて、龍馬進学研究会という塾の見せ方や運営にその一端が表れていると感じますね。
安本:そうですか(笑)。確かにそういうところがあるかもしれません。
浅見:たとえば龍馬のポスターは独特ですよね。ポスターの中にドラマを感じます。
安本:最初から映画のポスターみたいなのを作ろうというのがありました。塾のチラシとかポスタ
浅見:龍馬が普通の塾と違うという印象を持ってもらうことになったと思います。しかし、なかなかこういうポスターを作ろうという発想は出てこないと思うのですが。
安本:お金がないので目立つ方法を考えるしかなかったんです。成り上がり商法。
浅見:これだけ長く塾の世界に身を置くことになったのは金銭面だけではないと思いますが何故ですか。教える面白さを感じてですか。
安本:うーん、それもあったと思いますが、何でこんなに塾にはまったのか忘れてしまいましたね(笑)。龍馬を立ち上げてからは塾を運営すること自体、人間としての挑戦になっているかもしれません。
浅見:大手塾Aが千葉に進出してくるときに津田沼戦争と言われていました。
安本:自分が入ったときはその2~3年後でもう落ち着いていましたね。
浅見:その時からずっと国語を教えているわけですか。
安本:自分にはそれしかできませんでしたから。
浅見:小学生対象の中学受験塾でどんな国語の授業をしていました。
安本:最初の頃は上位クラスではなく、国算クラスの担当でしたが、国語というより子どもたちに人生や青春を語っていたように思います。何年か前に還暦祝いで当時の卒業生が来てくれて、「アンポン(安本)といえば青春だ」と言っていましたから、そんな話をしていたんだと思います。かまやつひろしの「我が良き友よ」という歌の中に「子ども相手に人の道 人生など説く男」という歌詞がありますが、いい歳して青春を語る時代錯誤が子どもたちにとって面白かったのかもしれません。でも、お仕着せの教材ではなく、自分でプリントを作ったりしていましたから、教えることへの情熱もあったのでしょうね。対象は小学生でしたけれども小学生扱いしないで話をしていました。だから40歳ぐらいになった教え子に君たちにとって中学受験とはなんだったと聞いたときに「青春でした」と答えてくれたのは嬉しかったですね。現在、50歳近くになる彼らに何らかの影響を与える存在だったのかと思うと、今から振りかえるとすごいことだったと感じます。当時は自分もまだ独身で青春だったのでしょうね。
浅見:相手が子どもだからと話のレベルを子どもたちに合わせずに話しているように思います。
安本:そういうことができないのですね。建前で話すことが下手(笑)。それは保護者に対しても同じです。
浅見:中学受験で教えている人たちの中には、相手が小学生だからと甘く見て対応している人が多いように思います。
安本:その子の人生を預かっているというのが基本的に自分の中にあります。龍馬になってから特にそうです。大手塾にいるときは、国語科の中で自分がどの位置にいるかを考えていましたが、龍馬を立ち上げてからは4科目でこの子をどう合格させるかを強く意識しています。自分だけが前面に出てはいけないというのが変わってきたところです。大手塾の時はいい結果が出れば俺のおかげだみたいな我が物顔でしたが、今はこの子にとってどうしたらよいかというのが先にきます。責任を強く感じるようになりました。その分、1日1日がシンドイと感じるようになりましたが、今までの自分の生活を支えてくれた仕事でもあり感謝の気持ちもありますから、もう少し頑張って続けて行こうと思っています。
浅見:安本さんは国語の読解力をつけるには人を好きになることだということを言っていましたね。
安本:それが卒業生の青春の話にもつながっていると思います。恋をすると相手の言動に敏感になる。それが、文章に描写されている言葉やしぐさから人の気持ちを読み取ることにつながる。
最近は、「AIが発達してくるとどれだけ算数ができてもそれは機械に取って代わられてしまうが、人の気持ちがわかるということはなかなか取って代わられないだろう」ということを話しています。どういう人が役に立つ人かと言えば、1つは、長い資料を読む時間が無いからまとめておいてくれと言われたときに、どれだけ要点をまとめられるか、つまり理解力の高い人です。もう1つは人の気持ちがわかることができる人間ということです。この2つが世の中のリーダーに求められるだろうということを伝えています。国語の勉強をする大切さはそこにあるということを言っています。
それも機械に取って代わられるかもしれませんが、自分はそういう思いでやってきましたし、自分が正しいと思ったことをやっていくしかできないと思っています。
浅見:龍馬を作って自分でやろうとしたのは何故ですか。
安本:大手塾Aに14年半いて、最初は自由にやれて面白かったのですが、だんだん組織化が進み、難関校に600人合格させるという数値目標が本部で決められ、それに沿って各教室にノルマが与えられてきました。600作戦とかいっても、難関校に600人合格させるためにどうするということが一切無く、ただ数字だけが教室に割り当てられることに対して、何だこれはと思いました。会社の営業ノルマみたいなものです。自分は、塾の講師はサラリーマンではないと思っていましたし、そういう組織の中でやっていくことは詐欺のように感じました。生活が安定しているから続けていていいのかという点で自分が納得できませんでした。
ムリやり有名校に受験生を向けるというより、講師の魅力で子供たちを育てたい。同じ仕事をするなら、そういう塾をやりたかったというのがあったと思います。ですから、龍馬の最初のチラシに「塾とは先生のことを指す。ぼくたちは会社ではなく塾を作りたかった」という一文を入れました。20年以上経ちましたがいまだにそれは守っているつもりです。
浅見:龍馬では受験する学校に関しては家庭に全て任せているわけですか
安本:津田沼という場所にいると受験する学校というのは大体決まってしまいます。自分は基本的には東京の学校を見ることを勧めています。でも最近は皆さん千葉の学校しか見ていないです。
千葉では選択肢が狭いし、受験日が統一されていないので、合格する子はいくつも合格するけれど、落ちる子は全て落ちるという形になってしまうわけです。大手塾Bでは受験指導の結果なのでしょうが、専修大松戸や芝浦工大柏などに進学が決まった子は恥ずかしくて進学先が言えないという歪んだ状況になっています。塾のコマーシャルにならない学校は勧めないから、そういう学校を受験する人は肩身が狭くなってしまう。これは不幸ですよ。自分が進学する学校を誇りに思えないというのは。
浅見:大手塾Cでは、普段の授業中から開成・麻布・武蔵・桜蔭・女子学院・雙葉以外は学校ではないというような言い方をして、子どもを煽っているという話を聞いた事があります。まさかとは思いますが。安本さんとしては幅広い選択肢の中から学校を選んでほしいということですね。
安本:そういう環境は作ってあげたいです。千葉の学校が難関校として定着してきたのはこの20年です。それまでは東京の学校の滑り止めだったわけです。この20年で偏差値が上がってきたので、入学者の学力は上がってきていますが、大学の進学実績を競っている状況で、学校の懐の深さという点ではまだまだのように感じます。
そういう面では、どこに何人合格させたかがいい塾のようにいわれる塾業界と似ていますよね。東大に何人合格を出したかがその学校の価値だと言っている間は学校側も受験生側も成熟していないということではないでしょうか。
今年から学校名が変わり共学になる学校の説明会に行った龍馬の保護者が「とても素晴らしかった」と言ってきたので、「何がよかったのですか」と聞いたら「○年後に東大に○名合格を出しますと言っていました」ということでした。思わず「お母さんしっかりしてください」と言いました。校名が変わり共学になる学校の最初のアピールがそれかと思うとがっかりします。
浅見:以前、埼玉のある私学が説明会や学校案内で6年後の大学実績がこうなりますというグラフを出して生徒募集に利用していたことがあります。誰も6年後にはそのことを覚えていないのでしょうが、当時の学校案内を保管しておいて、実際の大学入試結果と比べてみたことがあります。
安本:将来の構想を語るのはよいですけれど、6年後の大学合格の約束が学校のセールスポイントなら、予備校をやればいいんです。塾側の人間としてはそういう学校は疑ってかかるのが正しい判断だと思います。
浅見:中学入試の段階で、特別クラス選抜やコース制選抜を行っている学校もあります。中学入試の段階で、まして1回の試験で子どもの能力や適性を見抜くことができるわけがないのに。
安本:でも、そういう常識が受験生の保護者の中にないんです。よく考えてみれば1回の試験で東大だ医学部だの能力が測れるわけがないのはわかるはずです。にもかかわらず東大コースに合格すれば東大に受かった気持ちになってしまう保護者もいるわけです。それが中学受験のあり方を歪めている1つであるとも思います。やたら横文字を使ったコース名も気恥ずかしい誇大広告に感じます。
浅見:受験生側にも、この学校のこのコース、このクラスに合格したならその学校に進学させてもいいという保護者がいるのも事実ですね。
これまでの話の中にも出てきてはいますが、龍馬の特徴はどんなところですか。
安本:設立の理念として「塾とは先生である」と表明しているように、先生の水準を高く保つということがいの一番です。教室は受験勉強をするところではありますが、それ自体が部活であると思っています。自分たちは受験勉強という部活を指導しているわけです。
さらに特徴としては親が卒業生になるということでしょうか。
龍馬は塾としては昭和の名残を引きずっている塾だと言われます。ポリシーを変えず、時代に合わせることが出来なかったのが、逆に幸いして塾として続いているのかもしれません。
変化できなかったことが塾の特徴となり、そういう塾がいいと支持してくれる人もいます。
浅見:龍馬の説明会に来ると、龍馬の考え方に賛同している保護者の人が多いと感じます。
塾も私学も、その考え方に賛同する人が集まってくればよいのだと思います。
浅見:保護者の方にどんなことを望みますか。
安本:終始一貫言い続けてきたのは、皆さんは何のためにお子さんに中学受験をさせるのですかということです。それは究極的にはカッコいい大人にするためでしょうと。別の言葉で言えば一人前の人間にするということです。それが、何のために中学受験をさせるのですかと聞くと答えられないわけです。いい中学に行くため、いい大学に行くため、いい就職をするためくらいしか漠然と頭にないわけです。いい就職をして家を建てるのが目的だと最終的には家のローンを抱えるために勉強しているということになってしまう(笑)。
そういうことではなく、親がこの子をちゃんとした大人にする責任がある。そうすると、合格こそが受験の全てだという考え方がそもそもおかしいということがわかってもらえる。中学受験は一番落ちてもいい受験ですと話します。保護者会に来られたお父さんにこの話をすると納得してもらえる。お母さん方はそうは言っても落ちたら可哀想というふうになりますが。親として、落ちる経験をさせるために受験をさせるという気持ちを持っていてほしい。
浅見:自分も受験前に子どもたちに話すときに、落ちる経験もしてほしいという話をします。落ちて初めてわかることがたくさんあるわけです。受験を甘く考えていた、もっとしっかり勉強しておけばよかった、最後まで諦めずに入試を乗り越えることが出来た、親がどんな言葉をかけてくれた等々。もちろん、落ちたときは保護者とともにフォローはいたしますが。
安本:入室説明会でそういう話をすると、アンケートに、初めから落ちたときの言い訳をしていると書かれたことがあります。でも、入試前の壮行会に卒業生が応援に来てくれますが、みんな落ちた時のことを話してくれます。その苦しさや悲しみが自分を創っていくと知っています。これはすばらしい伝統だなと思っています。落ちることを自慢する塾なんです(笑)。
浅見:今、子どもたちと関わっている中での面白さはどんなところですか。
安本:面白さとは少し違うかもしれませんが、信頼されていることに対する責任感、使命感を感じます。自分たちを信じてくれている子たちにどう応えていくか。それが面白いということですかね。
今は、自分たちへの信頼に対する責任がキチンと果たせているかということしかないですね。それが出来たと思えたら自分の人生は幸せだったと思えるのかな。
浅見:子どもたちに対する接し方も変わってきましたか。
安本:必然的に変わらざるを得ないですね。根本的な思いは変わっていませんが、子どもたちから見ると、お兄さんから始まって、お父さんと同じくらいのおじさんを経て、今やおじいさんですから。自分から距離を置かなくても、自然にできてきた距離というのがあると思います。だからといって自分から子どもたちとの接し方を変えたということはありませんが。
浅見:塾の立場から塾の存在意義というのはどう思いますか。
安本:進学塾という立場から言うと、塾は学校を選び受験するための勉強をする所です。入試問題レベルの小学校で教えてない勉強をしているということです。そこが塾と学校との大きな違いだと思います。ただ、人格形成が学校にあって塾にはないとは思いません。受験という機会を通しての人格形成。むしろそれが中心かもしれません。塾でやる学習内容はどこの塾でもそれほど差があるわけではない。それを意識して子どもたちに責任を持って向き合っているかで塾の特徴が出てくると思います。そう信じています。
浅見:保護者はどのように塾を使えばよいですか。上手な塾の使い方は。
安本:抽象的かもしれませんが、一緒に子育てをしてもらいたいと思います。預かった以上、受験に対してこちらは責任がありますが、その時に余計なお世話だと言われたり、全て塾に任せますと言われたりしても困るわけです。その子にとって何が一番よいのかを一緒に考えてくれる塾を見つけることが塾を上手く使うことになると思います。
ただ、それに応えられる塾の人間がどれだけいるかを思うと、ほとんどいないと言うのが現状ではないでしょうか。形だけの塾の先生が言う「睡眠時間は何時間までとか、受験生たるものはこうでなくてはならない」ということを信じて、金科玉条のように押しいただいてしまう保護者にも問題があると思います。
そもそも、親は、子どもが受験生としての自覚を持っていて当たり前と思っている。勉強大好きなんて子は例外なのに、その理想と比べて、「うちの子は・・・」となって子どもにあたってしまう。
子どもは基本的に勉強が嫌いという所からスタートしなくてはいけないのに、「うちの子は中学受験に向いているでしょうか」という質問がよくあります。ほとんどの子が向いているわけがない。それを親の責任としてどうするかということから話を始めます。
浅見:親も塾の卒業生になって欲しいと言われていましたが。
安本:なって欲しいというより、親も卒業生になってくれます。最後は龍馬の考え方を理解してもらえていると思います。卒業式には親子で参加してもらうのですが、話を聞いているとむしろ親の方が強烈な思い出を持ってくれているようです。
子どもからすれば自分はおじいさんみたいなもので、親御さんの方が子どもの年齢なんですね。子どもは自分のことをこわいじじいとしか思ってないですが、親御さんにはそれなりに自分の話を感じてもらえているようです。
ただ、子どもは中学受験の後も成長して親から離れていくわけですが、中学受験は親子で臨む受験なので、いつまでも中学受験の時のイメージをいだいたまま、親の方が子離れできないという例もあります。
浅見:子どもの勉強を家で見てくださいということを言うのですか。
安本:言いません。できればいいですけど、それをやっている家庭が普通だと思わないでくださいと言っています。親が見られないから成績が悪いということはありません。両親が共働きでも桜蔭や開成に合格している子もいるわけですから。
今年、確信したことがあります。コロナの対応で例年と違う形を取って功を奏したことが1つあります。前年の6年生との比較を取っていて、今年の6年生は前年の上位生を超える子が一人もいませんでした。ところが、フタを開けてみると前年以上の結果になりました。大きな要因は自習室を9月から開放したことだと思います。昨年はコロナでリモート授業を行ったりしましたが、家にいると座ってはいるが集中することができないのが子どもだということがよくわかりました。
自習室に来て集中して1時間やるのと、家でボンヤリ座っていることの積み重ねが大きな差になるのがわかりました。勉強は究極的には自分でやるものなんですが、子どもは自分でやっているとついつい気がそれたりボーッとしたりするわけです。ところが自習室ではボーっとはできなかった。それが今年の入試結果の勝因だと思います。
今年の6年生はこちらから言われたことを一生懸命やる二流の力はあるが、自分で勉強を管理してやれる一流の力はなかった。でも自習室を使うことで超二流になったと思います。それで志望校以上の学校に皆が合格できたのだと思います。
コロナで授業ができない時もありましたが、自習室の開放も含め、保護者からは塾はやれるだけのことをやってくれたと思ってもらえたと思います。それは、この子たちに親が何を望んでいて、今、何をどうやるかということを、保護者から要求される前にやれたからだと思います。
浅見:普段、子どもたちを見ていないと何がキッカケで伸びたとか、なにが必要なのかというのはわかりませんよね。大手塾ではそれができないから数字でしか子どもを見られないわけです。
安本:保護者会では、龍馬史上最低、これほどできの悪い学年はめずらしいという話をずっとしていました。親は苦笑っていましたが。それが、この結果になったので本当に驚きです。お兄ちゃんがいた親から「兄の時もそう言われたのよね」という話が伝わっているらしいですけれども(笑)。
龍馬では、親と塾の人間という立場を超えて、一家というか、そういう一体感が出来ていると自負はあります。
浅見:保護者にはどんなことを望まれますか。
安本:さっき話したとおり、何のために中学受験をするのかをしっかりと持っていて欲しいということです。ちゃんとした大人に育てるためなのに、そうでなくて一流校と言われる学校に合格することが目標になってしまっていないか自覚していてくださいと伝えています。
やるべきことはちゃんとやる、最後までやり遂げる。そこに中学受験を経験させる大きな意味があると思っています。入試が終わったときに「失敗の経験をさせたかったから中学受験をさせたのよ」と言える親になっていて欲しいですね。そのときに親が「この学校にしか合格できなかったのは恥ずかしい」などと言うと全てが無駄になってしまいます。
浅見:不合格になっても子どもに「いい経験ができたね」と言って欲しいですよね。
安本:それが本当の大人でしょう。
浅見:子どもを見ていて伸びる子はどんな子ですか。
安本:天才と言える子ですね(笑)。あるいは大人の感覚を持っている子です。
二流の子が超二流になることはできるけれども、一流になるには天賦の才がないと難しい。
しかし、伸び方に差はあっても、やるべきことをやるのが一人前の人間の資格です。
苦しくて、やめたいやめたいと言いながらも、最後までやり遂げた子は何か一つ乗り越えているものがあり、それが顔つきに表れます。やり遂げたということが1つの成功体験なんです。
あんな苦しいことを最後までやったのだから、これから何かあっても乗り越えられるという意識。それ1つをとっても立派な大人になる条件を1つクリアしたことになると確信を持って言えます。
浅見:受験生として家庭ではどのように対応したらよいですか。
安本:矛盾するようですけど、放っとかない、甘えさせないということでしょうか。保護者会では子どもを愛してください、愛してもいいけれど信じないでくださいと言います。子どもは自分の都合のいいようにいくらでも嘘をつきますから。信じるに値する人間に育てているわけで、10歳や11歳の子どもを人間的に信じていると言っている方がおかしいでしょうと言います。問題の答を写して全部○をつけて家庭学習を終わりにしている子は普通にいますから。「うちの子はそんなことはしていません。そんなことのないように私が見ていますから」という方もおられますが、ありのままを認めて人としてどうかという視点で付き合って欲しいですね。
ありのままの子どもをそのまま愛してやって欲しい。40人中30番であっても、まずそれを認めてあげて、そこからどうするかを考えてあげて欲しい。次は20番になりなさいというアドバイスしかできないのは頭の悪い大人の証明でしかないと言っています。
受験というとどうしても成績がバロメーターになってしまいがちですが、我が子をそのバロメーターで測ることはもっともやってはいけないことでしょう。頑張った30番と何もしない30番では意味が違う。そこを見ているかが重要でしょう。一生懸命やっても失敗することもあれば、何もしなくてもいい結果が出ることもあるわけです。それを結果だけでほめたりけなしたりすることはおかしいと自分に置き換えてみればわかることなのに、それをやっていませんかと話します。
「今回30番だったけれど、あなたが頑張っていたのは知っているよ」と言ってあげるのが親でしょう。それなのに順位だけにこだわるのは親の頭の悪さが出てしまっていますよね、という話をすると嫌な顔をされます。あの時は嫌なことを言うなと思ったけれど、後から、その通りだなと思いましたという親御さんは多いです(笑)。
浅見:これまでの保護者や卒業生で印象に残っている人は。
安本: 大手塾Aの時のお母さんで、さっき、アンポンといえば青春だと言った鹿児島ラ・サールから医者になった子のお母さんですが、「中学受験をさせようと思ったのは、この子が生まれてきて良かったと思えるように育てたかったからです。親の勝手で授かった命ですから、その子が産んでくれて有り難うと言ってくれるように育ってほしい。そのためには公立の教育内容ではダメだと思った。どうせ行かせるなら寮生活がある鹿児島ラ・サールに行かせようと思いました」と話してくれました。このお母さんが、今の自分を作っていると感じます。
学童が終わって、彼が「お母さん、僕は明日からどうするの」と聞かれたときに「お母さんは明日から教育ママになるから」と言ったら、彼は大笑いしたそうです。その翌日に大手塾Aの入室テストを受け、体験授業が自分でした。そこから付き合いが始まったのですが、このお母さんの考え方と覚悟が中学受験の原点だと思っています。因みにその時の彼のテスト偏差は37だったそうです。
生まれてきて良かったと思える、つまり、一人前の人間に育てる、カッコいい人間に育てることが親の役目だと思い、ラ・サールに進学させ、そこでいろいろな友達や先輩に出会い、いいことも悪いこと(停学くらって反省文も書かされたことがある)も体験する様子を見て、これが彼の青春だと思うとうらやましくて仕方がなかったそうです。
卒業生では、やはり大手塾Aの時の最後の卒業生で、その校舎で1番の子でした。2番から5番の子は開成に合格したのですが、彼だけが不合格に。海城に進学。海城でもずっとトップで、将来NASAに行きたいと言っていた。東大から東大大学院で宇宙工学を。研究室に一人なので研究費を一人で使ってる(笑)。絶対確実だと言われた開成を失敗した彼だが、なによりも海城を愛し、学園祭の実行委員長までやり、充実した学校生活を送る。中学受験の第1志望に不合格になっても、それが人生を敗北に導くものではないという例として彼をあげたいと思います。
浅見:学校選択の話がありましたが、学校を見る上での注意点がありましたら。
安本:将来の大学実績など耳障りのよい話をする学校は気をつけた方がいいと思います。
浅見:好きな学校はありますか。
安本:両極端に見えますが、武蔵と巣鴨は好きですね。徹底して生徒の自主性に任せるか、徹底して手を出すか。それが私学らしいところでしょう。龍馬は有無を言わせずガリガリとやらせて二流を超二流にするところが巣鴨的だと言われることがあります。
浅見:私学に望むことは。
中高の6年間は人生の中でもっとも重要な時期ではないかという気がします。特に、そこで誰と出会ったかが人生に大きな影響を与えると思います。その6年間で出会えて良かったと言える大人がどれくらいいるかが学校の魅力の全てと言ってもよいのでは。
どれだけ魅力的な大人がいるかがその学校の特色ではないかと思います。
浅見:自分深めの学習という取り組みを行っている学校同士の勉強会で、「自分は卒業生として、この学校が行っている取り組みを生徒とともに行いたくて、この学校の教員になりました」という若い先生がいました。私学の先生になる場合、その学校がどんな取り組みをしているのかを知った上で、それに賛同してなって欲しいと思います。=
安本:母校を愛するというのは、学校が有名だから云々ではなくて、自分がその学校で過ごした時間が宝物だったから出てくるものでしょう。開成のどこが好きだと言われて、東大の合格者が多いからという人はいないでしょう。本人の充実度がその学校に行ってよかったということにつながるのではないでしょうか。その意味でも魅力的な先生の多くいる学校であって欲しいですね。
浅見:受験を通して子どもが成長するために必要なことは
安本:落ちること、やり遂げることの2つですね。不合格には、これだけやっても落ちたという痛切なものもありますが、全然やらなくて落ちたという甘っちょろいものもあります。全然やらなくて落ちた子はまさか自分が落ちるとは思ってなくて、落ちて初めてちゃんとやらなかった自分を反省することになります。これだけやっても落ちたという場合、自分の力では及ばないことがあるということを12歳にして知ることになるわけです。この場合は大人の対応が大切です。対応を間違うとずっと立ち直れない傷を負うことになります。それさえ間違わなければ、中学受験は純粋に甲子園を目指している高校球児と同じ敗れてなお美しいと言える経験だと思います。
浅見:中学受験に関わる塾に求められることは。
安本:中学受験の仕事をするわけですから、何のために中学受験をするのか、それはちゃんとした大人に育てるためだということをわかっているべきだということですね。
いわゆる合格屋ではないということです。中学受験は大学受験の近道を獲得するためというのは、何かを忘れている。そういう塾が意外と多い気もします。
中学に進学する子どもたちに、次の6年間で君がすることは誰よりも自分を誇れる人間になれ、自分で自分を誇れるようになれと言っています。カッコいいことを言いすぎかもしれませんが、理想論を語れなかったら塾をやっている資格はないと思います。
浅見:話し残したことがあれば。
安本:コロナで最初の緊急事態宣言が出たときにリモート授業が広まって、リモートは素晴らしいと言っていた塾がありましたが、それならずっとリモート授業をやっていればと言いたくなります。リモート配信技術がその塾の素晴らしさみたいに言うのは語るに落ちてはいませんか。保護者の皆さんには塾や私学の本質は何かをよく考えて欲しいと思います。ぼくは「人」だと思っています。
(文責 アクセス教育情報センター)
「この人に学びたくて行く所。」
それが塾のたたずまいであると思っています。
したがって、我々の言葉よりもシステムやデータを必要とされる方は、会員に募集するつもりはありません。
そういう塾に行かれるべきです。
国語も算数も理科も社会も、究極的には人生そのものに触れていくために学ぶものです。
の方がはるかに大切だったと思います。
同じ勉強をするなら、先生を選んで、信じてやっていくべきです。
龍馬の授業を直接受けてみて下さい。
道化師もいればお人好しもいます。一生モテそうにない奴も。
しかし、人を妬んで足を引っぱるような腸の腐った人間はひとりもいません。だれが何と言おうと、自分を生きるカッコよさがあると思っています。
どうか他塾の授業を見て来て下さい。比べた後に結論を出してください。他塾の授業の方がより魅力的であるなら、そちらを選ぶべきだと考えています。
なぜなら、
塾の魂(いのち)は先生であり、授業だからです。
1999.4.12
国語研究会龍馬 設立(一期生)
創立者 安本満が、当時の最大手塾日能研最上位クラス担当講師3名をともなって創立。今のビルの隣で、規模は現在の4分の1くらい。5年生でもっていた6名が移籍。各々、開成・麻布・海城・鹿児島ラサール・学芸大竹早・女子学院・フェリス女学院に進学。この年、新4年生の初募集の広告展開。キャッチフレーズは、「塾とは、先生のことを指す」「龍馬には役者もおれば乞食もおるが、はらわただけはきれいだぞ」で、新聞広告と駅貼りポスター。予定定員40名以上を確保。
樋口義人氏・三渕衡一氏・金廣志氏・浅見均氏という業界超大物を後見とし、現在に至る。
2000.6.1
有限会社龍馬進学研究会となる(二期生)
安本は、主宰という名誉職名を戴き、授業の少ない理社に経営を任す。二期生となるこの年は、Aクラス8名。開成・駒場東邦・早稲田他、市川6名、東邦8名、渋幕4名合格。
2001.8.8
現在のビルに移転(四期生)
全学年40名以上2クラス体制の確立。この年の御三家は、麻布1、雙葉2、千葉は、市川12、東邦12、渋幕7。
2003.8.30
初の龍馬祭開催(五期生)
以後今年まで、他塾と一線を画する独自の名物企画として夏期講習終了時に開催される。(卒業生たちの一番の思い出に100%挙がる)
この年は市川中26名受験23名の合格だった。
2004.6.30
安本、正式に代表取締役兼主宰に就任(六期生)
以後、現在に至る。
この年、市川ショック(合格者1000人減)。1月中は東邦・市川・渋幕で渋幕が最多合格。2月定員の少ない二次で東邦・市川ではとりかえし、2桁合格キープ(東邦は後期全合格者20名中6名が龍馬)。
2005~2009
生徒数が学年50名超、60名超に至り、薄まるのは不本意と、入室制限をかけることに。
八期生は東邦18名合格。御三家男子は、開成2・麻布1。他、渋幕は7。以後男子はコンスタントに御三家合格。桜蔭は、9年間進学者0。念願の桜蔭が10期に一気に3名合格。
もし北海道転居者がなければ確実に4名合格だった。以後桜蔭をはじめとする女子御三家も連続で合格出る。
2010~2016
十一期で開校時以来初の40名を割る卒業生(37名)。以後しばらく40名弱の生徒数が続くが、経営的には安定。
十二期は、男子御三家(開成1、麻布2、武蔵1)プラス桜蔭で5名。市川10、東邦12、渋幕6だった。(39名中)
十七期は開成・麻布・桜蔭・女子学院・市川11・東邦11・渋幕4。(38名中)
2017~2022
再び40名以上在籍する安定期に入る。二十二期はコロナ禍の中、史上最弱学年と言われながら、麻布・早慶他渋幕4名。
二十三期生は、女子御三家+豊島岡に5名進学した。男子は武蔵等。
2021~現在
安本が2021年脳梗塞発症。更に2022年大腸癌ステージIVが発見され、回復の見込みなしとなる。役員で龍馬解散の話が出、募集を控える。しかし、まさかの奇跡の回復で、来年度より本来の募集人数に「超難関校向け進学塾として完全復活宣言」をする。
中学受験を考える親御さん、現在中学受験生をもつ親御さんを対象に、セミナーを開催いたします。
塾に通う前に何をしておけばよいのか、中学受験はどういう世界なのか、各々の私学の本当の情報等を中学受験界の権威から、各科目の勉強法等を授業担当講師から、中学受験を実際に経験された親御さんの体験談からお伝えする教室です。
「龍馬」は中学受験対策のコースです。
小学校4・5・6年生から中学受験対策として本格的に学習していきます。
2025.3.9
毎年、千葉県の主要校並びに都内校の入試担当の先生に来塾いただき、それぞれの学校説明会を開催させていただいております。
2025年は現在日程調整中です。決定しだい発表いたします。
外部生の保護者の方も参加できますので、是非お申し込み下さい。
以下に2024年度(昨年度)開催校を載せておきます。
《 2024年度の開催実績 》
10/11(金) 市川・芝浦工業大学柏
10/16(水) 東邦大学付属東邦
10/24(木) 専修大学松戸・昭和学院秀英
11/02(木) 渋谷教育学園幕張
中学受験学習塾の龍馬進学研究会の合格実績です。
毎年スローガンのキャッチコピーを掲げて、目標に向かっていきます。
入試報告会の動画や卒業生の声など紹介もしているので、合格までの道のりがわかります。
龍馬進学研究会
〒274-0825
千葉県船橋市前原西2-21-8 松沢ビル2F
047-470-0059